わたしは、今でこそ、フリーランスで事務のお仕事をさせてもらっていますが、一番長いキャリアは大学の事務職員でした。
ハードワークに疲弊しつつも、教育・研究を裏方として支える仕事にやりがいを感じつつ働いていました。
そんな中でも、一番わたしの頭を悩ませたのが、ゼネラレリストとしての人事異動でした。
この記事では、わたしが大学の事務職員として、理事長秘書に配属されたときの実体験をお伝えします。
理事長秘書になりメンタルダウンした経験が、わたしがキャリアコンサルタントの勉強を始めた理由や、キャリアで悩んでいる人のお役に立ちたいという原体験になっています。
新卒の就職活動で失敗(序章)

わたしは、東京都内のシングルマザーの家庭で育ち、1年浪人して、地方国立大学の文学部を卒業しました。
新卒の就職活動でガッツリつまずき、たまたま内定を頂けた神奈川県内の中小企業に就職をしましたが、コンプライアンス違反に耐えられず、1年で会社を辞めました。
わたしは、「新卒」という日本社会で働く上での貴重なカードをドブに捨ててしまったうえに、短期離職というハンディを負いました。
再就職先も見つからないまま1社目を辞め、地方公務員や大学職員の試験を片っ端から受けまくりました。
そして、25歳の時に、何とか無事に公立大学の事務職員の内定をもらい、大学職員への転職が決まりました。
晴れて安定の大学職員になる
今になって思い返すと、わたしが大学の事務職員になった理由は、かなり安直でした。
大学は土日祝日休みの超ホワイトな職場で、外回りや数字目標を負うことのない、「事務職員」という仕事は傍目には楽そうな環境に思えていました。
大学職員、実際は超ブラックだった

ですが、実際のところ、「楽そうな職場」という予想は大きく外れました。
わたしの勤めていた大学は、人事がかなり不安定で、離職率の高い、めちゃくちゃブラックな職場でした。
正規職員が辞めて、派遣と非常勤で埋める、病気休職が出る…
いろんなキャンパスで、一年中そんなことを繰り返しているような職場でした。
わたし自身、月の残業時間が100時間を超えることが何度もあったし、36協定違反にならないように、残業をつけないで仕事をしている先輩・後輩もいました。
メンタルを病み、休職中に亡くなった人もいました。
経営企画室に異動になる

その中でも、わたしが一番しんどいと感じたのは、人事異動でした。
大学には7年半ほど勤めましたが、その間に4回ほど人事異動を経験し、5つの職場を経験しました。
29歳の時に、大学の事務組織の中枢である、経営企画室に異動になりました。
少数精鋭部隊で仕事内容もハードでしたが、総額270億円の予算を策定するプロセスに関われることにやりがいを感じていました。
💡 大学職員として、人事異動に悩んでしませんか? ゼネラリストとしての働く上でのキャリア形成は、こちらの記事を参考にしてみてください。

理事長とのゴルフがすべての始まり

一方で、経営企画室に配属された当時から、たまたま当時の理事長に気に入られてしまいました。
そして、理事長がわたしと一緒にゴルフをしたいからという理由で、理事長の娘が使っていた中古のゴルフセットを贈られていました。
当時のわたしは、それも仕事のうちだと自分に言い聞かせていました。
繁忙期には残業をしながら、主任試験の勉強と並行して、自腹を切ってゴルフの個人レッスンに通いました。
そして、理事長や経営企画室長たちと一緒に土日にゴルフのラウンドに回ることもしていました。
理事長の秘書になり、メンタルを病んだ
経営企画室で2年が過ぎた時に、新しい人事異動の内示が出ました。
31歳の時に、わたしはついに部署内異動で理事長の秘書に配置されてしまいました。
公開処刑|理事長の秘書になる

前々から、理事長に個人的に気に入られているのは周囲も暗黙の了解だったのですが…
派遣契約だった役員秘書との契約を打ち切ることを理由に、わたしは理事長の秘書になりました。
この時、既にわたしを守ってくれていた上司たちは、全員、人事異動でいなくなっていました。
そして、最終的に生贄にされました。
人事異動の発令が出た瞬間、わたしは「公開処刑」に遭ったと思いました。
月100時間の残業に耐え続け、毎月の経営会議の資料をキッチリ仕上げて、キャンパスに頭を下げながら大学の予算削減を推し進めて、財務の職務を全うしているつもりが…
人事から「女を売っている」的な評価を受けたことが、悔しくて悔しくて仕方ありませんでした。
理事長秘書になり、孤独になった

理事長秘書の時代、直属の課長はあからさまに理事長から嫌われていました。
課長もその自覚があったのか、理事長室に入るときには必ずご機嫌取りのために、わたしを同席させました。
そして、係長はなぜか「わたしは、お茶くみはしません!」と宣言をし、お茶汲みはすべてわたしの仕事になりました。
結果、わたし一人で理事長室に入らなければならないことが多くなりました。
当時のわたしは、理事長からのゴルフの誘いを断ることもできず、また、間に入って良しなにゴルフを断ってくれる上司もわたしの近くには残っていませんでした。
理事長の秘書になり、わたしはどんどん孤独になっていきました。
ある朝、起きたら涙が止まらない…

秘書になってからというもの、理事長室に入ったときの、理事長のにやけ顔が気持ち悪くて仕方ありませんでした。
理事長から「今度、うちで家族ぐるみで、ご飯をしよう」と誘われたこともあり、その時は、本当に背筋が凍りました。
そして、理事長の秘書に配属になり、3か月経つ頃です。
ある朝、起きた瞬間に、嗚咽するほどの涙が出て止まらなくなくなってしまい、そこから一週間ずっと泣き続けていました。
怖くて怖くて、職場に行くこともできなくなりました。
わたしを見つけたときの、理事長のにやけ顔が気持ち悪くて仕方ありませんでした。
「もう限界」3か月でメンタルダウン

大学内でわたしが休んでいるという噂が広まったのか、無断欠勤して2週間くらい経過したころに、同期から電話がかかってきました。
ある日、起きたときから、ずっと涙が止まらなくて…
どうしよう、もう仕事に行くのが怖くて…
理香さん、お願いです!今すぐ病院に行ってください
わたしは、同期に言われるがままに、自宅近くの精神科のクリニックに行きました。
そして、正確な病名は忘れましたが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に類する何かだと診断されました。
そこから3か月間、休職することになりました。
職場への復帰面談で叱責される

3か月間の休職を経て、「定数外(過員)」という、戦力にカウントされない配置で、学部再編と関係のない落ち着いたキャンパスに人事異動が決まりました。
言ってしまえば、事務組織内で一番暇な環境です。
復帰に際して、直属の課長と人事の係長と面談をしましたが、体調を心配するどころか
- 最初の2週間、無断欠勤したことに対するお咎め
- 欠勤中に仕事のリカバリをしてくれた課長と係長への謝罪の要求
- 医師の診断書を使い、復帰への配慮として人事異動を要求することは卑怯なやり方だということ
- ゴルフは「業務」ではないので、わたしの病気休職や人事には一切関係がないこと
こんな趣旨のことを言及されました。
復帰面談はわたしがただただ叱責される場に終わり、病気休職もすべて「個人の責任」という扱いで片付けられました。
99%潰れない大学を辞めることを決意する

7年も勤めた大学です。教育研究の現場を裏方としてサポートをする仕事には、やりがいも愛着ももっていました。
ですが、こんなにも人事異動に振り回される職場で、頑張っても報われないどころか、ここまでひどい目に遭うなら、定年まで働き続けることはできないと感じました。
このとき、メンタルが回復して職場復帰がうまくいったら、99%潰れない大学という安定な職場を離れることを、内々に決意していました。
3か月の休職期間を経て、低空飛行で職場復帰をし、週末に精神科のプログラムをこなしながら、少しずつつメンタルを回復してきました。
そして、約半年間の学部での勤務を経て、翌年の4月1日から民間企業へと転職することになります。
最優先すべきは、自分自身の幸せ

経営企画室への人事異動は避けられないことだったのかもしれませんが、勇気をもって、ゴルフクラブを受け取らなければ良かったのかもしれません。
AさんとBさんが付き合っている
C係長が、非常勤のDさんにブチギレした
そんなくだらない噂が一日で大学内に噂が広まるような、そんな狭い狭い世界でした。
ですが、波風を立ててでも、もっと自分を大切にしてあげればよかったと、今ではそう思います。
20代のキャリアを振り返り、今思うこと

新卒で入った会社で短期離職をし、第二新卒として転職活動をしましたが、なかなか思うような求人もいただけず、自分自身の市場価値の低さを痛感していました。
そうした背景もあり、わたしは自分ができることに増やすのに必死でした。
大学の組織から求められていることに応え続け、自分のスキルや経験を積み重ねていくことが、キャリアの「正解」だと思い込んでいました。
そして、自分の正直な気持ちや感情に蓋をして、周囲からの期待に応えようと、我慢し続けた結果がメンタル崩壊でした。
キャリアコンサルタントとして思うこと

キャリアコンサルタントを志した理由は、こうした自身のキャリアにおけるどん底体験がもとにあります。
わたしがキャリアコンサルタントの資格を取ったのは、34歳の時でした。
キャリアコンサルタントになった今、20代・30代の自分を振り返って思うことですが、当時のわたしは、
- 自分がどんな働き方をしたいのか
- どんな人と一緒に働きたいのか
- どんなやり方で社会貢献ができたら、やりがいを感じられるのか
といった、自己理解がまったくできていなかったのです。
💡 自信のキャリアを振り返ってみたいと思った方には、この記事を参考に「Will-Can-Mustのフレームワーク」に取り組んでみてください。今の働き方に疑問を感じているなら、原因を把握しておくことをお勧めします。

会社員・副業・フリーランスを経て思うこと

31歳で大学を辞め、その後、民間企業を2社経験し、36歳の時にオンライン事務代行の副業を始めました。
そして、フリーランスになった今になって思うことは、わたしは安定した職場で毎日同じような日々を過ごす、大学という職場環境は自分には向いていなかたったということです。
そして、不安定さを受け入れてでも、自分の裁量をもって決められる働き方の方が向いている、というのは働きながらいつも感じていることです。
独立してからというもの、誰と一緒に働くか、どんなお仕事の依頼を引き受けるか、選べるようになりました。
そのことが、今のわたし自身の生きやすさに繋がっています。
安定しているけれども、閉鎖的・保守的な職場、大学職員という働き方が自身のキャリアの志向性が真逆だったことを、身をもって感じています。
💡 自分には、どんな働き方が合っているかが気になった人には、「キャリア・アンカー」の診断をお勧めします。家族や友達と一緒にできるワークなので、こちらの記事を参考に取り組んでみてください。

自分の人生に主導権をもってほしい(まとめ)

当たり前のことですが、わたしたちは仕事のために生きているのではなく、生きるための手段として、仕事をしています。
わたしがキャリア支援の仕事をする際には、「自分自身の幸せをまず第一に優先してほしい」とお伝えしています。
とはいえ、令和の日本社会では、人生の大半を仕事に費やすことも事実です。
わたしのようなケースは極端かもしれません。
そうではなくとも、何となく仕事で報われないと感じていたり、このまま今の会社に勤めていて良いのかな?と不安に思っていたりしないでしょうか?
もし、心当たりがあるなら、まずは自分が働く上で大切にしたい価値観を言語化することをお勧めしたいです。
大切にしたい価値観は、あなた自身の「トリセツ」のようなものです。
30代、40代になってからでも、遅くはないです。
むしろ、10年、20年とキャリアを重ねてきたからこそ、大切にしたい価値観が見えてくるものだとも思います。

一人でも多くの女性に、自分らしい生き方/働き方を実現してほしいと心から願っています。
💡 自分の大切にしたい価値観を明確にするワークに「ライフラインチャート」があります。自分ひとりでもできるワークなので、こちらの記事を参考に取り組んでみて欲しいです。

